コラム

Vol.76

by ひきたよしあき 2021.10.15

「暗記」のコトダマ

中学受験を目指して塾に
通っていた頃の話です。

当時の私は、暗記が苦手でした。
「詰めこみ教育」と言われた時代です。
理科も社会も国語も暗記ばかり。
覚えられないものだから、

「暗記だけの勉強なんて意味ないよ」

と斜めに構えて、自分の怠慢から
目をそらせていました。

夏期講習の時でした。
ある先生が、こんな話をしました。

「スタンダールの小説『赤と黒』に
こんな話がでてきます。

主人公ジュリアン・ソレルが
長い手紙を人に知られないように
届ける仕事を託されました。
彼は途中で、捕らえられて、手紙を
奪われてもいいように、長文の手紙を
全部暗記します。

『本当におぼえられるのか』

と聞かれたジュリアン・ソレルは、

『忘れるんじゃないかと心配
しない限りは大丈夫さ』

と答えます。

先生は、「忘れるんじゃないか」と
マイナスの暗示をかけたとたん
忘れてしまうものだと言いました。

「暗記が苦手」
「覚えることに意味がない」

そういう暗示をかけると、どんどん
ものが覚えられなくなる。

「だからみんな、暗記は得意だ!
楽しい!と思うようにしよう」

という話でした。

実はこの話、聞いた当時は「赤と黒」も
ジュリアン・ソレルもひとつも覚えて
いませんでした。

高校に入って、「赤と黒」を読んでいた
ときに、

「あれ、この場面、どこかで聞いたことが
あるな」

と思い、小学生の頃の夏期講習を思い
だしたのです。

高校3年の夏。私は相変わらず、
暗記に苦しんでいました。

「暗記に意味はない」を通りこして

「受験勉強なんて、全く意味がない」

と考え、自分にマイナスの暗示を
かけていたのです。

しかし、ジュリアン・ソレルは
教えてくれました。

「暗記できるかできないかは、
能力の問題ではなく、気持ちの
持ち方なんだ」

と。

ようやく「僕は暗記が得意」と
思い始めたのは、それから一年後。
浪人した年の秋になってからでした。

「自分は、暗記が嫌いじゃない」
「暗記は、いい頭の訓練だ」

と無理にでも思うようになり、
人に、

「僕は、暗記することが好きなんだよ」

と言う。
みんな、「そんな人がいるんだ!」と
驚いた顔をしました。

その驚きが本当であることを証明
したくて、暗記をポジティブにとらえると、
勉強全体がずいぶんと楽になりました。
暗記が脳をやわらかく耕してくれたのです。

「暗記のコトダマ」の声に耳を傾ける。

するとコトダマは、

「忘れるんじゃないかと心配
しない限りは大丈夫さ」

と答えてくれるはず。

「私は暗記が得意」という自己暗示が
何よりも大切です。

皆さんもぜひ、「暗記好き」の暗示を
かけてみてください。

  • ひきたよしあき プロフィール

    コラムニスト。
    明治大学で教鞭をとるかたわら、朝日小学生新聞にコラムを連載、読者である子どもたちとの文通も行っている。
    著書に、「大勢の中のあなたへ」(朝日学生新聞社)、「5日間で言葉が『思いつかない』『まとまらない』『伝わらない』がなくなる本」(大和出版)等。