児童教育実践に
ついての研究助成

研究紹介ファイル
No.13 金 愛蘭氏

広島大学 大学院教育学研究科 日本語教育学講座 准教授

いかにして言葉で困る人たちを少なくするか
言葉と社会をつなげていきたいですね

金 愛蘭氏言語学者であり、日本語教育者である金さんが日本語の中の外来語(洋語)に注目したきっかけは「非母語話者として感じた違和感」だったという。
「大学院のマスターの時に韓国から日本に来ましたが、日本人と話したり新聞を読んだりする際に、どうしてこんなに外来語を使うのだろう、と不思議でした。実際に韓国人や中国人、英語圏の人たちも" え?こんな意味で使ってるの?!" と戸惑う事例がよくあり、日本語学習者は困っていたのです。たとえば日本人は『トラブル』を『お肌のトラブル』のように使いますが、英語母話者は日常会話においてはTrouble よりもProblemsなど別の単語をしばしば選択するようです。日本語の中で外来語はどういう意味を担い、どのように使われているのかを調査し理論化したいと思いました」。
その違和感を基に、すでに院生のころから「外来語の基本語化」というテーマに着手していたというが、金さんの研究のオリジナリティは外来語の中でも「抽象的な意味を表す外来語」に焦点を当てていることだ。
先行調査によって、20世紀後半には日本語における外来語の使用量が確実に増加し、その結果、一部の外来語が「基本語」=広範囲・高頻度に使用される語彙群の中に見出されることが明らかになったという。さらに「基本語」になった外来語には、「テレビ」「ホテル」「ビル」「エンジン」など生活が近代化し「モノ」が普及することで使われるようになった具体的な名詞のほかに、「タイプ」「システム」「バランス」「ケース」「トラブル」のような「抽象的な意味を表す外来語」が入っていることもわかったそうだ。
具体名詞の場合は、もともと外国語だった言葉が「モノ」と一緒に日本に入って来て生活に溶け込み「外来語」と呼ばれる日本語の語種のひとつとなり定着したと考えられ、日常的に使われる理由もわかる、と金さんは言う。
「けれども、『トラブル』の場合は『もめごと』『不仲』『不調』『事故』『不祥事』など、以前から使われてきた和語や漢語があるにもかかわらず、なぜ基本語に進出してきたのか。この現象は日本語の骨組みを成す言葉が大きく変化していることを示唆していますが、その実態の解明は、当時、十分なされていませんでした」。

分析したいのにコーパスがない、コーパス作成が研究の大きな転換に

そこで金さんは「抽象的な外来語の基本語化」について、①どんな外来語が基本語に進出しているかの特定 ②どのような過程を経て基本語になっていったのかの検証③なぜそういうことが起ったのか、をつまびらかにすることを目的に、まず大規模な20世紀後半の「通時的新聞コーパス」を作成するところから助成研究に着手した。
コーパス化する資料媒体に新聞を選んだ理由は、
「公共性が高く一般読者に伝わるように書かねばならない媒体において外来語の使われ方を見ることは、外来語の浸透度合いを測るバロメータのひとつになると考えたからです。社会・経済面から学芸欄、読者ページなど内容や話題も多様性に富んでいます。さらに均質な資料の中で、20世紀後半の通時的な変化を見ることができる点も大きな理由です」。
実は金さんは助成研究に取り組む以前に、新聞媒体を資料に「トラブル」と「ケース」の2語については基本語化の過程を明らかにしていた。が、分析に使える「通時的新聞コーパス」がその頃は存在せず、「図書館の書庫に閉じこもって、新聞の縮刷版を読みながらひたすら用例を探していました。用例を見つけたらコピーして英単語帳に切り貼りし、それを自分でパソコンに打ち込んでデータ量が蓄積できたら分析する。遅々とした歩みで時間も相当かかりましたね」。
しかし、「抽象的な外来語の基本語化」を実証しその実態を解明するには、もっとたくさんの外来語について調査し分析しなければならない。そのためにも「大規模で通時的な新聞コーパス」の作成は金さんにとって不可欠だったのだ。
「『外来語の基本語化の研究』をしたかったのですが、そのためには自分でコーパスを作るところから始めねばならなかったのです」。
金さんは1950年から2000年までの『毎日新聞』を資料媒体に、10年おきに各年平均約200 万字、全体で1000 万字を超える「通時的新聞コーパス」を設計・作成した。これほど規模の大きなコーパスは日本ではきわめて珍しく大いに注目され、金さんの研究そのものの大きな転換点になったという。
「助成により入力業務を任せられることで、調査と分析に時間をまわすことができ、結果を共同研究者と共有もできる、そのおかげで研究がさらに進み発展していきました。本当に大きな成果でした」。

外来語が基本語化している理由は新聞記事の文体の変化にある

作成した「通時的新聞コーパス」を使って金さんはまず、使用の度合いが増加傾向にある外来語と減少傾向にある外来語を分析・抽出して5段階に区分した【表1】。さらに意味の側面からも検討して、増加傾向の大きい区分ほど抽象的な意味を持つ外来語が多く、逆に具体的なモノを示す外来語は少ないことを実証したうえで、基本語化したと考えられる外来語の候補【表1のうち太字】を示した。この結果は「外来語には具体名詞が多い」というそれまでの常識をくつがえすものだった。
また「抽象的な意味の外来語が基本語化した」と言うためには、外来語の増加傾向に応じて既存の類義語(和語・漢語)の使用量が減少している事も確かめなければならない。
そこで候補のうち最上位にある「メンバー」と「レベル」の2語については、それぞれの類義語の使用量の変化を通時的に明らかにし「職員」や「一員」が「メンバー」に、「段階」や「水準」が「レベル」に取って代わられるという基本語化の過程の型を発見した。そして外来語の基本語化が生じた理由を、20世紀後半の新聞の文章が次第に概略的な文体へと変化したことが大きくかかわっている可能性があるのではと結論づけた。
「戦後の新聞を見るとまるでタブロイド紙のようです。述べ方が具体的で庶民的な感じすらします。『トラブル』は私が作った『20世紀後半の通時的新聞コーパス』でも1950年には使用数はゼロです。60年~70年に少し増え、80年からグーッと使用頻度が伸びていきます。そして20世紀後半には『金銭関係にトラブルを抱えていた』のような述べ方の型ができていて、トラブルの具体的な中身を書かなくても何か問題があったことがふんわりと伝わる便利な言葉として新聞記事を書く際に重宝がられるようになります。『けんか』『いざこざ』『故障』『事態』etc.いろんな意味を一言で述べられる外来語が基本語化していったのは、新聞記事の文体が概略的な述べ方へと変化していったことと密接に関わっていると言えると思います」。
さらに金さんは、次のような面白い話を聞かせてくれた。
「類義語との競り合いに負けて、結局、基本語の座は獲得できず、"挫折"した外来語もあります。たとえば『クレーム』。1950年や60年には全く使われていないのに、1980年にかけて急激にグッと使用頻度が高まりますが、10年後には落ちてしまい現在でも『苦情』という類義語を上回ることはできていません。新聞ではもともと経済面で使われ始めた言葉が次第に経済とは関係のない事柄でも多用されるようになるのですが、『クレーマー』のようにちょっと良くない感情を連想させる意味がついてきたために使用頻度が落ちたのでは、と推測しています。日本では苦情や文句を言うことは社会の中であまり評価されないですよね。社会心理学や社会学など異なるアプローチをしないと要因の解明はできませんが、言葉は生き物です。取って代わったり挫折したり、そういう現象がなぜ起きているのかを調査し他言語と比べることで、日本語の特徴がさらに浮き彫りになっていくと思っています」。

【表1】区分1(増加)

【表1】区分1(増加)(増加傾向係数+15〜+8:+12から+8は略)

コーパスは、教育の場でどのように活用できるのか

「通時的新聞コーパス」はその後も少しずつ規模を大きくし、現在は2000万字の膨大な資料になっているという。助成研究から10年、金さんの研究はどう発展しているのだろう。
まず、子どもたちの教育にコーパスがどう活用されているのかについてうかがってみた。
「日本語が母語でない児童生徒への日本語習得指導や支援に、教育現場ではすでにかなり使われています。『学習者コーパス』というものがあり、日本語を習う学習者たちの日本語(ノートとか作文、レポートや論文など)を集めて、それをコーパス化し中身をいろいろ見ていくと、例えば中国人はこういう間違いをよくする、韓国人はこんな間違いが多い、といった分析ができるので指導・支援に役立てられるのです。また『教科書コーパス』を使えば算数の教科書によく出てくる言葉、物理の教科書でよく使われる言葉がわかり、その意味を用例と一緒に学ばせることができます。さらにたとえば『シャワー』という言葉は動詞の『浴びる』と一緒に使うことが多いといったように、ある言葉とくっついて使われる表現を調べて提示することもできるので、言葉を使いこなす力が身につくのです」。 指導・支援だけでなく、子どもたちの自主学習の促進にもコーパスは大いに役立っているという。
「本や雑誌を読んでいて気になる言葉があった時に、自分でコーパスを用いて検索してみれば、文章の中での言葉の使われ方がわかります。同じ言葉でも使われ方によって意味が異なることもわかり、言葉の用例を習得していくことができます」。
また、常用漢字の選定といった「国語政策」にもコーパスが力を発揮する。
「コーパスを用いて使用頻度の高い漢字を抽出・リスト化した基礎資料を国に提供することができます。2010年に新常用漢字が発表され『鬱』という漢字が常用になって話題を呼びましたね。あれは『書ける』より『読める』が新しい常用漢字選別のコンセプトのひとつだったからです。『鬱』はなかなか書けない漢字ですが、コーパスを用いて調べてみると、書き言葉においては『鬱』という漢字表記の使用頻度が高いことが実証されました。手では書けないけれど読む機会は多い漢字だとわかったのです」。
日本語教育の現場でも、国語教育の現場でも、「コーパス」の教育的活用はまだまだ可能性を秘めているようだ。
「助成研究では『基本外来語のリスト』を作成し、現場の教師に提供しましたが、さらに教科書に載っている外来語に絞ったリストを提供することもできます。教育現場では外来語を中身まで丁寧に見ることは時間的制約もあり難しいようですが、ずっと例に挙げている『トラブル』もそうですが、基本語化した外来語は、もはや日本語なのです。『日本語』として日常的に使われるようになった外来語がどのような意味を担いどういう使われ方をしているか、日本人もよく整理できていないのではないでしょうか」。【参照1】

【参照1】現在の「トラブル」の意味用法

【参照1】現在の「トラブル」の意味用法

いろんな人の幸せにつながる事を言葉の研究を通じて提示したい

大規模な「通時的新聞コーパス」を自ら作成し、「抽象的な意味を持つ外来語の基本語化」現象について、どういう外来語が基本語化したかという語彙論的アプローチを膨大な実例を示しながら丁寧に実証した金さんだが、現在、文体と絡めての文章論的アプローチもさらなる展開をみせているそうだ。
「戦後間もない1950年の新聞と今の新聞を比べると、明らかに述べ方が違うのです。その違いがなぜ起こったのかを見ていくには近代から調査しなければならないと思い、共同研究者とともに近現代まで範囲を広げました。明治時代の雑誌コーパスを使って述べ方を見てみると、近代は漢語優勢な時期なのです。それが今では外来語優勢の時期になっているわけですが、それは日本語の文体と日本語の構造がどういうふうに変わってきているからなのか、より大きなパラダイムで捉えたいと考えています」。
金さんによれば漢語は分析的に述べるのに適しており、外来語は総合的・概略的に述べるのに適しているという。
「どういうふうに述べるための外来語になってきているのか、実例を積み上げているところです」。
また、金さんは福祉言語学(Welfare Linguistics)の研究活動も行っており、日本語非母語話者のための災害時・通院時に必要なマニュアルを作成し、それを留学生や日本語学校などに無料配布しているという。【参照2】
「東日本大震災の後、東北大学で危機言語を調査するプロジェクトがあり、その時に『高台』という言葉を知らない、習ったことがない留学生が多かったと聞きました。『避難所』もよくわからなかったようです。災害という特定の分野においては大事な基本語ですが、整理して理解できるようにしておかないと命にかかわります。病院に行った場合もそうです。保険証とか診察券という言葉も習いませんし、そういう文化がなければ余計わかりません。日本人が外国に行った場合を想像するとわかるのではないでしょうか」。
福祉言語学はここ10年くらい活発になってきているそうで、
「実は私自身、阪神淡路大震災の時に初めて日本にやってきたので、2度の震災経験は貴重だと思っています」。

最後に、金さんの今後のビジョンについてうかがってみた。
「外来語の基本語化については、さらに社会学的なアプローチ、たとえば年齢差による意味用法・使用頻度の違いを見ていくことも必要だと思っています。いろいろと目の前のことでいっぱいな気もしますが、コーパスを活用しながら、言葉の研究でできることで社会に何かを提供していきたいですし、日本人も外国人も、いろんな人の幸せにつながるようなことができればいいな、と。言葉で困る人をいかに少なくするか、それが言語学研究者の使命のひとつなのではないかと思っています」。

【参照2】大地震の対応マニュアル〔やさしい日本語版〕

【参照2】大地震の対応マニュアル〔やさしい日本語版〕

日本語教育学を学ぶゼミ生・留学生と。
日本語教育学を学ぶゼミ生・留学生と。「言葉そのものにときめいて、燃えてほしいですね。新しくて面白い現象を見つけた時のワクワク感を大事にしながら、言葉の研究がどういうふうに人を結びつけていくか、絆を作っていくかを意識して、言葉で社会を見る、社会から言葉を見る、そんなふうに言葉の中身を見られるようになってほしいと思います。」
  • vol.6 日本語教育を考える
  • 研究紹介ファイルダウンロード

    この研究を掲載した冊子『研究紹介ファイル Vol.6』をPDFでダウンロードいただけます。