Vol.131 |
2026.05.15 |
「歩くのコトダマ」
運動不足を指摘された私は、最近、努めて歩くようにしています。
駅でもエスカレーターを使わず、階段を使う。
「階段を一段昇ることは、歩く3歩分にあたる!」と自分で決めて、できる限り階段を昇降しています。
この話を大学の講義中にしたところ、学生からの反応は、
「疲れるだけです」
「そんな気力はない」
と、冷ややかなものでした。そういえば、大学で教え始めた頃は、教員しか使っていなかったエレベーターを、学生がよく使うようになりました。
「教員専用」ではないので、乗っても問題はない。それでも、10年前、いや、5年前の学生ですら、階段を利用していたように思います。
考えてみれば、彼らの育った環境は、静かに座る時間で埋め尽くされています。
学校の授業、塾、家に帰ればゲームや動画。意識しないとなかなか体を動かす機会がない、そんな彼らのライフスタイルが、エレベーターの混雑に表れているのかもしれません。
歩く行為が健康にいいのは言うまでもありません。そればかりか、脳の前頭前野を刺激することで、思考や想像力を活発に働かせることができます。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、弟子たちと歩きながら語り合いました。
歩きながら考える。考えながら学ぶ。あちこち歩く彼らは、のちに「逍遥派」と呼ばれるようになりました。
作曲家ヴェートーヴェンも散歩が好きで、ウィーンの郊外をよく歩いていました。
歩きながらメロディが浮かんでくる。それを書き留めていたそうです。
大学の教室でこんな話をしていると、ある学生が、
「先生、いっしょに散歩しましょう」
と言ってきました。大阪の梅田から天王寺までを、あれこれ話しながら歩きました。
実に楽しい時間でした。川の流れ、風の抜ける音、商店街から漂ってくるソースのにおい、日陰に入ったときの温度差、歩いたあとに飲む水のおいしさ。
画面越しに多くのことを『知って』はいても、実際に足を動かす『体験』はまた格別だったのでしょう。明らかに歩く前よりも目が輝き、顔色がよくなっていた。私自身、「いっしょに歩く」という経験がこれほど深く印象に残るものかと驚きました。
「いっしょに歩く」。その中で交わされる会話は、頭だけでなく、お互いに五感を働かせたものです。「思ったより寒いね」という一言で、お互いの気持ちがひとつになる。「歩くのコトダマ」は、そんな力を秘めています。
親子で話しづらいことがあったとき、少し心に距離を感じたとき、短い時間でかまわないので、一緒に歩いてみてはどうでしょうか。特に会話はなくてもいい。並んで、歩く。この時間全体が、子どもの心に静かな言葉を残していくはずです。
歩きましょう。
いっしょに、歩きましょう。






