コラム

Vol.107

by ひきたよしあき 2024.05.15

「足る」のコトダマ

私の母は、今年92歳になります。
幸いなことに、頭も足腰もしっかりしています。
今は、老人ホームにいて、私は時々ここを訪れています。

先日、久しぶりに母を訪れました。
新緑の美しい季節。近くにある公園を散歩しながら 昼食に向かいました。

「何が食べたい?」

と尋ねると、

「おいしいトンカツが食べたい」

と返してきました。
普段は、カロリー計算された、体に優しい食事を 食べている母。たまには、カロリーの多い食事を ガッツリ食べたいとのことでした。

しかし、私は不安でした。

二ヶ月前に母は歯を抜いて、まだそこに 歯が入っていないのです。

実は私も、同じ時期に歯を一本抜いて 今は、歯肉が盛り上がるのを待っている状態。

「食べにくいなぁ」 「うまく噛めないや」

とイライラしています。

母の歯の状態は、私よりひどい。
それでトンカツを食べることができるのかと ちょっぴり不安になりました。

近所で、おいしいと評判のトンカツの店に入り、 一番やわらかそうなメニューを選んだ。

母は、運ばれてきたトンカツをおいしそうに 口に含み、目を閉じてもぐもぐしています。
私もトンカツの一片を口にいれましたが、 思った通り、噛みにくい。
母に

「大丈夫?噛める?」

と聞くと、母は目を閉じたままうなずきます。
呑み込むと、私を見て

「おいしいねぇ」

と嬉しそうな笑顔を浮かべました。

「ちゃんと、噛めるの?」

と私はあらためて聞きました。 すると、母は、

「ありがたいことに、他に残っている 歯で噛めば、おいしく食べることが できる。がんばってくれている歯に 感謝だよ」

と言ったのです。

私は、ハッとしました。
失った歯のことばかり考えて、 残ってがんばっている歯についてなど 考えもしなかった。

いつも足りないこと、欠点、 できないことばかりを見つめては イライラしている自分と母との違いを 見た気がしたのです。

「足るを知る」

という言葉があります。

「知足者常富(ちそくしゃじょうふ)」
足るを知る者は常に富めり。

つまり、何事に対しても「満足する」 という意識をもつことで、精神的に豊かに なれるということです。

私が、一本歯が足りていないことばかりを 気にしていたのに対し、母は、残っている 歯が「ある」ことを見ていた。
それで、豊かな気持ちで、おいしくトンカツを 食べていたのです。

私も母の真似をして、「ある」のコトダマに 感謝し、元気に働いてくれる歯に感謝しながら トンカツを食べてみました。
すると「歯がなくて食べにくい」とイライラ しているときには味わえなかったおいしさが 口の中に広がったのです。

「足るを知る」

「ない」ものではなく、今「ある」ものに 目を向ける。

「あれはないけれど、これがある」

と「ある」のコトダマに従ってあたりを 見回すと、自分がいかに豊かな世界に 生きているかを知ることができるのです。

今の私はすでに十分足りている。

この意識さえしっかり持てば 食べものの味まで変えることができるのです。

食事のあと、母と再び公園を歩きました。

「風が気持ちいいねぇ。今日は絶好の 散歩日和だね」

と、今あるものに喜び、元気にまた 歩きはじめました。

  • ひきたよしあき プロフィール

    作家・スピーチライター
    大阪芸術大学客員教授
    企業、行政、各種団体から全国の小中学校で「言葉」に関する研修、講義を行う。
    「5日間で言葉が『思いつかない』『まとまらない』『伝わらない』がなくなる本」(大和出版)、「人を追いつめる話し方、心をラクにする話し方」(日経BP)など著書多数。